信州諏訪7号酵母発祥の酒蔵!

諏訪を盛り上げるにはさらなる地域との連携が必要になる。蔵元・真澄が担うものとは

PROFILE

宮坂直孝氏

1956年(昭和31年)2月23日、諏訪市生まれ。慶應義塾大学商学部卒。米国ワシントン州ゴンザガ大学にてMBA取得。
1983年、宮坂醸造株式会社入社。
2004年、香港に子会社「Cella MASUMI Asia Limited」を設立。
2007年4月、代表取締役社長に就任。
2010年11月、諏訪商工会議所副会頭に就任(~2016年)。
2012年、日本吟醸酒協会理事長に就任(~2016年)。

諏訪を語るうえで欠かすことが出来ないお酒。全国的に有名な蔵元・真澄の宮坂直孝社長に、その成り立ちから真澄としての取り組み、そして諏訪のこれからについて訊いた。

諏訪に訪れた人と地元の人が交流すれば新しい何かが生まれる

――早速ですが、諏訪で長く日本酒を作られている蔵元・真澄の歴史からお教えいただけないでしょうか?

真澄蔵元、宮坂家は諏訪を治める諏訪氏の家臣から始まり、1662年に刀を捨て酒屋となりました。江戸時代の初期は諏訪の城にお酒をお届けする御用酒屋で、景気が良かった時期もあるんですけれども、江戸300年の間にだんだんと酒屋としては傾いていって、江戸末期から明治にかけては小さな酒屋になっていました。そんな時、私の祖父がこのままではつぶれてしまうということで、一念発起をして今があります。そんな祖父は次男坊だったんです。

――長男でなく次男が酒蔵を継がれたのですか?

本家の当主、長男は起業家で、今で言う多角経営をしていて味噌の商売なんかも始めていたので、酒蔵はどうせ儲からないと、次男である私の祖父が継ぐことになったんです。そんな祖父は年若くして酒蔵を継ぐことになり、最初に杜氏を自分と気が合う若い人に替え、さらにその若い杜氏を連れて、全国の名門蔵と言われるような蔵を訪ねまわったそうです。

――いきなり改革をされたんですね。

そう。全国の酒蔵を回るうちに、西条、今は東広島市と言っていて中国地方きっての酒どころなんですが、賀茂鶴さんという有名な蔵に通い詰めて、技術的なことから経営的なことまで教わったそうなんです。そこで教わったことを杜氏と少しずつ変えていくことで、酒の品質も変わり、販売も上向いていった。

――お爺様の改革が成功したと。

そうこうしているうちに、昭和18年に全国新酒鑑評会という品評会であろうことか真澄が一等賞をいただいたんです。全国新酒鑑評会は今だに続いている品評会で、当時は大蔵省主催の非常に権威があるものだったわけです。そんな権威ある品評会で、それまで聞いたこともないような田舎の酒蔵が一等賞を取った。最初は「まぐれだろう」と言われていたのですが、昭和21年にまた一等賞をいただき、どうもまぐれではないということになった。

――改革が成功して全国で一番になってしまうというのは凄いですね。

そんなことがあり、真澄には何か作り方の秘密があるんじゃないか?と、いろんな研究者が蔵にやってきて、いろいろ調べていったんです。そうしたら、特殊な酵母が酒蔵の中にいるということが分かった。ワインやビール、そして日本酒も酵母っていう小さい生き物が作ってくれているわけで、お酒作りに非常に大事なものなんです。そして一言に酵母と言ってもたいへんな種類があるのですが、私どもの蔵の中に住んでいてくれたのが非常に優秀な酵母だったと。そして祖父が賀茂鶴さんに教えていただいた技術を洗練していったことで、良い酒ができるようになったんだろうというようなことが分かったんです。

――優秀な酵母があり、そこに技術が合わさることで真澄は花開いたんですね。

はい。そんな優秀な酵母があるのであれば、全国に広めようとなり、旧大蔵省に付属していた研究機関がうちの蔵から酵母を採取し、培養して、それを全国の酒蔵に『これはいい酵母だから使いなさい』と販売をしたわけです。

――真澄の蔵の酵母が全国に広められたと。

この酵母の販売は今だにずっと続いています。醸造協会酵母と今は言われていますが、国の研究機関が優秀な酵母として7番目に見つけ出したものということで、「7号酵母」という名がついて全国に広まっていった。そんなことから、それこそつぶれかけていたような酒蔵が少しずつお客様の支持をいただけるようになり、気が付いてみたら長野県の中でも大きな酒蔵の一つになっていた、というのがざっとですが真澄の歴史になります。

――お話をお聴きしているとお爺様がいわゆる中興の祖なのですね。

まったくその通りです。祖父があっての我々です。さらに私の父も非常に革新的で、今で言うマーケティングが得意だった人で、瓶詰工場の近代化、東京へ新しいマーケットを求めるとか、保守的だと言われている酒蔵業界の中では革新的なことをやったんですね。

――お爺様が立て直し、お父様がさらに広めるという理想的な展開をされたと。

ですから、真澄は明治の中頃まではそんなに目立った蔵でもなかったのですが、祖父と父の2代が非常に革新的だったことで、現在がある。さらに私もそんな家庭で育ったこともあり、「革新する」ということを当たり前のように見て育ったので、私の代になってからは、地酒メーカーとしては比較的早く輸出への取り組みや、ショップを立ち上げるという、いわゆるダイレクトマーケティングに取り組んできています。

――さらに宮坂社長が続くことで、三代革新的な経営者が真澄を大きくされてきたわけですね。真澄さんはテイスティングなども気軽にできるお洒落なショップがありますよね。

私が経営に参加し始めた、1980年代の中ごろから1990年代の中ごろまでの10年間は日本酒全体の売り上げはジリジリと落ち始めていたんですが、地酒メーカーはとても元気だったんです。ちょうどテレビ番組などで地方の旅番組や旅行代理店の地方キャンペーンなどがあったおかげで、清酒全体の需要はじり貧だったけれども、我々のような地方メーカーは元気な時代だったんです。ちょうどバブルの時代でもあり。

――そうですね。まさにバブルの時代に地酒メーカーは元気があったわけですね。

ところが、バブルがはじけるのと合わせて地酒ブームも終息してしまい、どうしたんだろうというくらいに売り上げが伸びない時期がきたんです。そこで悩んでいたら、ある友人から「悩んでばかりいないでヨーロッパの酒蔵を見てきたら?」なんて言われて。ワインに詳しい酒蔵の息子の友人に連れられて、ボルドーやシャンパーニュに視察に行ったんです。

――宮坂社長はお爺様とは違い、海外の酒蔵を学びに行ったと。

そこで初めて海外のワイナリーを見たんですが、それがすごい勉強になった。一つはワインを作るためには、もちろんブドウをどうするかが非常に重要なテーマですけど、発酵のためのタンクをどうするか、酵母をどうするか、ということに凄くこだわっていたこと。二つ目が、当時はワイン需要が頭打ちになっている時期で、アジアへ売りに行こうとしていたり、国際化にも励んでいたこと。三つ目が、蔵などを改修して、ショップやテイスティングルームを作り、そこでワインと友達になってもらうという、いわゆるワインカントリーツーリズムに、非常に熱心に取り組んでいたことだったんです。品質の改善、国際化、それからワインカントリーツーリズム。僕はこの3つをその旅で学ぶことができた。なので日本に帰ってから毎年1回は海外に行かせてくれって、当時の社長である親父に頼んだんです。それは、日本酒の輸出をしますっていうのが建前だったけど、実のところはワインメーカーが何をやっているのか見たかったっていうのが本音で。日本の酒蔵もこの3つを一生懸命にやらなきゃいけないと思って実践したことが、現在のショップや真澄の販売戦略の基礎になっています。

――お話を聞いていると、お爺様とお父様で2代が革新的とおっしゃられていましたが、宮坂社長の3代で革新的なことをされているのがよく分かりました。ショップはオシャレですが非常に日本的で女性や海外の方も好まれる作りになっていますよね。

酒蔵がショップを開くというのは今は決して珍しくなくなりましたが、当時としてはパイオニアではあったと思います。

――すごく立派で。ただちょっと、入るときにどこから入っていいのかと(笑)。

確かに敷居が高いって言われてるみたいですね。暖簾の奥に酒蔵のショップがあるという発想がないらしくて、蕎麦屋さんと間違える人もいるそうです(笑)。

――長野がお蕎麦も有名ということもあるのでしょうね。そういったように、酒蔵として諏訪の発展に寄与されていますが、さらに諏訪を地域として盛り上げていくということで5つの酒蔵で飲み歩きイベントも開催されていますよね。それはやはり海外での経験を活かされているのでしょうか?

フランスのボルドーやブルゴーニュには、ワイナリーはたくさんありますが、それぞれ単体でやっているわけではなくて、産地全体で盛り上げている。やはり単体で何かをしようというのは限界がある。お客様の立場からしても、ただ大きなワイナリーが一つあるだけでは面白くない。小さいものもあれば、大きいものも、中くらいのサイズのワイナリーもあって、そしてみんな方向性がバラバラで。手軽なお酒を作っているところもあれば、超高級なお酒を作っているところもあり、辛口もあれば甘口もある、そのほうがずっと面白いし、それが正常な形だと思うんです。

――確かに訪れる側として、見るべきものがたくさんあり、自分の気になるものをチョイスできるというのは嬉しいですよね。

そこで、たまたま諏訪はうちも含めて5軒の造り酒屋、酒蔵があり、5軒みんな別々の酒を作っていますし、社長たちの考えていることもみんな基本的に違うので面白いと。なので単体で何かをするのではなくて、諏訪を「酒の都」みたいな感じにしていきたいなというのが夢で。

――「諏訪五蔵めぐり」という取り組みもされていますよね。

「諏訪五蔵」はちゃんとした組織になっているわけではないのですが、格好のいい言い方をすれば、真澄だけではなく、みんなでやってこそシナジーが発揮されて、諏訪全体が潤う。今は酒蔵としか組んでいないけども、例えば地域のレストランとか、お寺や神社の方々とか、そういった地域のみんなと組んでいく。そうじゃないとお客様にとって本当に楽しい町っていうのはできない。ボルドーは楽しいですよ。美味しいレストランもあれば、美しい街並みもあり、行くべき場所が山ほどある。だからこそお客様が来る。そうなっていきたいんです。

――見どころがあればあるほどお客さんは来やすい。諏訪といえばやはり花火がありますが、そういった観光資源との連携をどのようにしていこう、という構想はあるのでしょうか?

諏訪の花火は70年ほども続く歴史があり、それは先輩たちがずっとこれまで盛り上げてきてくれたことですよね。今後とも花火は諏訪の大きな売りであって欲しいなと思いますが、今はまだまだ一本足打法のような状態だと思っています。

――まだ花火と諏訪の地域が連携できていないと?

花火大会が開催される日は本当に大勢の方々がいらっしゃいますので、もっと地域の人と交流できるようになればいい。そういう意味では2006年に豪雨で花火大会が中止になったことがあって。ウチもスポンサーになっていたので、お客様と花火を観覧席に観に行っていたのですが、大嵐でみんなずぶ濡れで我が家へ戻ってきたんです。その時に見ず知らずの人も20~30人くらい入ってきた。まだ落雷が続いている状況だったので、皆さんを招き入れてお茶を飲んでもらったり、お風呂に入ってもらったりしました。

――ニュースになってたのを覚えてます。諏訪市も体育館などを解放したんですよね。

そうです。あれは本当に災難だったけど、そんなことがなければ知り合えない人たちと交流ができた。それはうちだけではなく、国道沿いの家の方々もお茶を出したり、タオルを出したりしたそうです。諏訪の人たちに良くしてもらったという人たちが、翌年の花火大会に来てくれたそうなんです。交流を持ったことで諏訪にまた訪れてくれたんです。

――凄くいい話ですね。

あまり災難はないほうがいいですし(笑)、ちょっと極端な例ではありますけど、花火を契機にして、地元の人と外から来られた方々が触れ合えるようなことになるといい。

――諏訪の人はフレンドリーな方が多いんでしょうか?

ここの人は性格がキツイと、長野県の人たちからは嫌われ者らしいんだけど(笑)、根はいい人たちなんですよ。ただとっつきが悪い。言葉がすごく荒く聞こえると僕もよく言われる。「なんで喧嘩腰なんですか」って(苦笑)。

――とっつきにくいけど、実は人情があるという。さらに諏訪ならではの食とのコラボレーションなども考えられているのでしょうか?

我々は酒屋ですから、やはりお酒と食とでマリアージュしていきたいと思っています。ヨーロッパはそういうところをうまくやっている。ボルドーにはこういう食があって、だからボルドーワインがあるんだという。後付けかもしれないけど、ヨーロッパの人たちってそういったことが上手い。そのあたりを諏訪はもうちょっと意図的にやってもいいんじゃないかな。諏訪は肉や野菜も美味しいですし、この地域ならではの材料を使って、諏訪に来なければ食べられない料理を開発していくというのは町全体のテーマだと思います。そしてそこには諏訪のお酒が密接に絡んでいると、そういうことをしていきたい。

――やはりそういった問い合わせは多いのでしょうか?

そうですね。やはり真澄にはショップがあるので、「このお酒に合う料理はどこで食べられるの?」っていう問い合わせは多いです。それも諏訪ならではのものでという。何もかも自分だけではできませんが、仲間を作りながら実現したいと思っています。

――なるほど。そこも周りとの連携が軸にあると。

例えば蕎麦も日本中、長野県中にあるので、単に蕎麦を出しておけばいいっていうわけではないと思うんです。諏訪の蕎麦ってどんなものなのか、というところを、もうすこし掘り下げていかないと強いコンテンツには成りえない。そこはこれからの課題かなと思っています。

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